今回の墨蹟

六中観 [正篤 ]

忙中 閑有り。 苦中 楽有り。
死中 活有り。 壺中 天有り。
意中 人有り。 腹中 書有り。

甲寅正月 無以会同人 敬しんで呈す
亀井老契 座右

【亀井正夫氏所蔵】

解説

安岡先生のことば。はじめの三つは『新憂樂志』の説明を引用する。

一、忙中 閑有り。
ただの閑は退屈でしかない。真の閑は忙中である。ただの忙は価値がない。文字通り心を亡うばかりである。忙中閑あって始めて生きる。

二、苦中楽有り。
苦をただ苦しむのは動物的である。いかなる苦にも楽がある。病臥して熱の落ちた時、寝あいた夜半に枕頭のスタンドをひねって、心静かに書を読んだ楽は忘られない。貧といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある。古人に「貧楽」という語があり、「窮奢」という語もある。

三、死中活有り。
窮すれば通ずということがある。死地に入って意外に活路が開けるものである。うろたえるからいけない。それのみならず、そもそも永生は死すればこそである。全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すこと、すなわち永生が実現するのである。のらくらとわけのわからぬ五十年七十年を送って何の生ぞや。


あと三つは、先生の『百朝集』の註を紹介する。

四、壷中天有り。
世俗生活の中に在って、それに限定されず、 独自の世界即ち別天地をいう。後漢書方術伝・費長房の故事に出ず。

五、意中人有り。
意中の人というと、恋人の意に慣用するが、 ここでは常に心の中に人物を持つ意。或いは私淑する偉人を、 或いは共に隠棲出来る伴侶を、又、要路に推薦し得る人材をここというようにあらゆる場合の人材の用意。

六、腹中書有り。
目にとめたとか、頭の中の滓(かす)ような知識ではなく、 腹の中に納まっておる哲学のことである。


そして先生はこの「六中観」をこう結んでおられる。

「私は平生窃(ひそ)かに此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、 仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」と。

甲寅正月は昭和四十九年正月。無以会は関西財界人の、安岡先生を囲む会。 先生亡き現在も続いている。亀井正夫氏はその同人。老契は老大の盟契、その道にすぐれた心友とみる。

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安岡正篤墨跡集

安岡正篤 (著)

安岡師が折にふれ、弟子の求めに応じて揮毫した味わい深い書の数々。