今回の墨蹟

古教照心 心照古教 [虎関 正篤学人書]

古教 心を照らし    心 古教を照らす

【関西師友協会所蔵「素行帖」所蔵】

解説

先生は「活学とは何か」と題する「先哲講座」で、次のように、
「古教照心 心照古教」を説明しておられる。

「古教照心ではまだ駄目である」
本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むと言っても、
そうかそうかと本から始終受ける読み方です。

これま読むのではなく、読まれるのです。書物が主体で、自分が受け身になっている。
こちらが書物から受けるのである。受け取るのである。つまり吸収するのです。
自分が客で、書物が主。英語でいえばpassiveです。
もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。

しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味に於て自分というものの力がない。
そういう疑問に逢着して、自分で考え、自分が主になって、今まで読んだものを
再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。

虎関禅師は「古教照心、心照古教」と言っておるが、誠に教えられ考えさせられる。
深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

「本当の読み方は心照古教でなければならぬ」
本というものは読まれたのでは仕様がないし、読まされたのでは大した力にはならぬ。
(中略)
そうではなくて自分から読む。そこで初めて研究というものになる。

それによって得るところは自分の生きた所得になる、活きた獲物、活きた知識になる。
知識にも色々あって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。
しかし心照古教にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。
受け身になって、機械的に受け取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならない。

(『活学』第一篇「活学とは何か」による)

虎関師錬(1278~1346)
鎌倉末期の禅僧(臨済宗)姓は藤原氏、8歳で出家、10歳で叡山に上り具足戒を受け、 後、四方に従游修行、25歳京都に帰る。 元亨2年我が国佛教史上の重要な書物である『元亨釈書」を著す。 後村上天皇より禅師号を贈られる。 東福寺・南禅寺に住み、楞伽寺を建立して住する。『仏語心論』。 詩文集『済北集』・語録『十禅支録』等の著作がある。


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安岡正篤 (著)

安岡師が折にふれ、弟子の求めに応じて揮毫した味わい深い書の数々。